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ジョセフ・ピラティスの生涯|病弱な少年がピラティスを生み出すまで

コラム

現代では世界中のスタジオで愛されているピラティス。でも、その創始者がどんな人物だったのか、意外と知らない方も多いのではないでしょうか。

実は、ピラティスというメソッドの背景には、一人の男性の壮絶な人生が刻まれています。この記事では、ピラティスの創始者ジョセフ・ピラティスの生涯を、物語形式でたどっていきます。彼がどんな時代を生き、何を考え、どうやってこのメソッドを生み出したのか——

一緒に見ていきましょう。

  1. 病弱な少年——「体が弱い」というコンプレックス
  2. 父の背中を追って——体操、ボクシング、そしてヨガとの出会い
  3. 14歳、解剖学書のモデルに——病を克服した少年の肉体
  4. サーカス団員として旅立つ——ヨーロッパを巡る青年時代
  5. 戦争、そして収容所へ——運命を変えたマン島の日々
  6. ベッドのスプリングから生まれたもの——リハビリ器具の発明
    1. リフォーマーの原型となった発明
  7. スペイン風邪、しかし誰も倒れなかった——メソッドの真価
  8. 「僕のメソッドは50年早すぎた」——ニューヨークへ渡る決意
  9. 8番街のスタジオ——ダンサーたちが集まり始める
  10. コントロロジー ——ジョセフが本当に伝えたかったこと
    1. 身体と心を自分の意志でコントロールする
    2. 「10回で気分が変わり、20回で見た目が変わり、30回ですべてが変わる」
  11. 1967年、83歳——遺言なき旅立ち
  12. クララが守り続けたスタジオ——夫亡き後の10年
  13. エルダーたちの旅立ち——現代の「流派」が生まれるまで
    1. ロマーナ・クリザノウスカ ——クラシカル・ピラティスの源流
    2. ロン・フレッチャー ——ハリウッドに広めた立役者
    3. イヴ・ジェントリー ——リハビリへの応用を切り拓く
  14. 2000年、「ピラティス」が一般名称になった日
  15. 現代のピラティスに受け継がれているもの
一人の病弱な少年

1883年、ドイツの小さな町で生まれた一人の病弱な少年。

喘息、くる病、リウマチ熱 ——彼は「大人になれないかもしれない」と言われていた。

しかし100年後、彼の名を冠したメソッドは世界中で愛されることになる。

これは、ジョセフ・ピラティスの物語。

病弱な少年——「体が弱い」というコンプレックス

1883年12月9日、ジョセフ・フーベルトゥス・ピラティスはドイツのメンヒェングラートバッハという町で生まれました。父は体操選手として賞を獲るほどの運動家、母は自然療法士。身体に関わる家系に生まれながら、皮肉なことにジョセフ自身は病気がちな子どもでした。

喘息の発作で夜も眠れない日々。くる病で骨は弱く、リウマチ熱が体を蝕む。同年代の子どもたちが外で走り回っている間、ジョセフはベッドの上で過ごすことが多かったといいます。

「あの子は大人になれないかもしれない」

周囲の大人たちがそう囁くのを、幼いジョセフは聞いていたのかもしれません。この「体が弱い」というコンプレックスが、後に彼を突き動かす原動力になっていきます。


父の背中を追って——体操、ボクシング、そしてヨガとの出会い

ジョセフの父は、ギリシャ式体操の優秀な競技者でした。病弱な息子にとって、たくましい父の姿はまぶしく映ったことでしょう。「自分もああなりたい」——その思いが、ジョセフを様々な身体鍛錬へと向かわせます。

体操、ボクシング、レスリング、ダイビング、スキー。彼は手当たり次第に運動を試しました。さらに東洋の思想にも惹かれ、ヨガや禅についても独学で学び始めます。西洋の筋力トレーニングと東洋の精神修養。この両方を貪欲に吸収した経験が、後のピラティス・メソッドの土台になっていきます。

当時のヨーロッパで東洋思想に関心を持つこと自体が珍しかった時代。ジョセフの探究心は、すでにこの頃から常識の枠を超えていたのです。


14歳、解剖学書のモデルに——病を克服した少年の肉体

驚くべきことに、14歳になる頃にはジョセフの身体は見違えるほど変化していました。かつて「大人になれないかもしれない」と言われた少年は、解剖学の教科書のモデルを務めるほどの均整のとれた肉体を手に入れていたのです。

これは単なる偶然ではありません。ジョセフは自分の身体を実験台にして、どんな動きが筋肉を発達させ、どんな呼吸が体調を整えるのかを徹底的に研究していました。病弱だった自分を自分の力で変えたという成功体験は、「正しい方法で鍛えれば、誰でも健康になれる」という彼の信念の原点になります。


サーカス団員として旅立つ——ヨーロッパを巡る青年時代

青年になったジョセフは、サーカスの団員としてヨーロッパ各地を巡業するようになります。曲芸やボクシングのパフォーマンスで生計を立てながら、彼は旅先で出会う様々な身体技法を吸収していきました。

サーカスという特殊な環境は、ジョセフにとって格好の学びの場でした。アクロバット、柔軟術、バランス芸——普通の体育教師では出会えないような身体の使い方を、彼は間近で観察し、自らの体で試すことができたのです。

この時期に蓄積された多様な経験が、後のピラティス・メソッドの「引き出しの多さ」につながっていきます。


戦争、そして収容所へ——運命を変えたマン島の日々

収容所でのエクササイズ

1912年、ジョセフは新天地を求めてイギリスに渡ります。ボクサーやサーカス芸人として活動し、スコットランドヤードで護身術を教えることもあったといいます。しかし1914年、第一次世界大戦が勃発。敵国ドイツ出身のジョセフは「敵性外国人」として、マン島の収容所に抑留されてしまいます。

自由を奪われた収容所生活。しかしジョセフは絶望しませんでした。むしろこの逆境を、自らのメソッドを磨き上げる機会に変えたのです。

彼は同じ収容者たちに運動を教え始めました。限られたスペースでできるエクササイズ、道具がなくても体を鍛える方法。毎日の運動プログラムを通じて、収容者たちの心身の健康を支えていきます。


ベッドのスプリングから生まれたもの——リハビリ器具の発明

収容所には、病気や怪我で寝たきりの人々もいました。「ベッドから起き上がれない人でも、運動できる方法はないだろうか」——ジョセフはそう考え、驚くべき発明を始めます。

彼が目をつけたのは、ベッドのスプリングでした。これを使って、寝たままでも筋肉に負荷をかけられる仕組みを作り上げたのです。

リフォーマーの原型となった発明

スプリングの反発力を利用したこの器具は、現在のピラティススタジオにある「リフォーマー」の原型となりました。ベッドに寝たまま、スプリングの抵抗を使って全身を鍛える——100年以上経った今も使われているこの器具の発想は、戦時中の収容所という極限状態から生まれたのです。

ジョセフはこの器具を使って、怪我人や病人のリハビリを手伝いました。本格的な医療器具ではありません。しかし、少しでも体を動かすことで、人々の表情が明るくなっていくのをジョセフは見ていたはずです。


スペイン風邪、しかし誰も倒れなかった——メソッドの真価

1918年、世界中でスペイン風邪(インフルエンザ)が猛威を振るいました。この感染症は、第一次世界大戦の死者を上回るほどの犠牲者を出したとされています。

収容所も例外ではありませんでした。多くの収容者が感染し、命を落としていく中で、不思議なことが起こります。ジョセフの指導を受けていたグループからは、一人の死者も出なかったというのです。

この事実がどこまで正確かを検証する術は限られています。しかし、この逸話はジョセフ自身にとって、大きな確信になったことは間違いありません。「自分のメソッドは、人を健康にする力がある」と。


「僕のメソッドは50年早すぎた」——ニューヨークへ渡る決意

戦争が終わり、ジョセフはドイツに戻ります。故郷で自分のメソッドを広めようと活動を続けますが、当時のドイツ社会では思うように受け入れられませんでした。

軍からトレーナーとしての誘いもあったようですが、ジョセフはこれを断ります。「新ドイツ軍」のために働くことへの抵抗があったとも言われています。

転機は1920年代半ばに訪れます。ジョセフはニューヨークに渡る船の中で、クララという女性と出会いました。彼女は看護師であり、後にジョセフの妻となり、生涯のパートナーとなる人物です。二人はアメリカで新たな人生を始める決意をします。

「僕のメソッドは50年早すぎた」

ジョセフは後にそう語ったといいます。ヨーロッパで理解されなかったメソッドを、彼は海の向こうに持っていくことにしたのです。


8番街のスタジオ——ダンサーたちが集まり始める

ダンサーとピラティス

1926年、ジョセフとクララはニューヨークの8番街939番地にスタジオを開きました。偶然にも、同じ建物にはニューヨーク・シティ・バレエ団のリハーサル施設が入っていました。この偶然が、ピラティスの運命を大きく変えることになります。

怪我に悩むダンサーたちが、噂を聞きつけてジョセフのスタジオを訪れるようになりました。当時の医学では「もう踊れない」と言われたダンサーが、ジョセフの指導で舞台に復帰する——そんな奇跡のような回復劇が口コミで広がっていきます。

マーサ・グラハム、ジョージ・バランシン。アメリカを代表する振付師たちが自分の弟子をジョセフのもとに送り込むようになりました。ダンスの世界で「8番街のスタジオ」は特別な場所として知られるようになっていきます。


コントロロジー ——ジョセフが本当に伝えたかったこと

ジョセフは自分のメソッドを「ピラティス」とは呼んでいませんでした。彼が使っていた名前は「コントロロジー」。直訳すれば「コントロールの学問」という意味です。

身体と心を自分の意志でコントロールする

コントロロジーの核心は、単なる筋力トレーニングではありません。ジョセフが目指していたのは、身体と心を自分の意志で完全にコントロールする状態でした。

一つ一つの動きに意識を集中させること。呼吸と動作を連動させること。体の中心(コア)から力を生み出すこと。これらの原則は、現代のピラティスにもそのまま受け継がれています。

ジョセフはよく言いました。「私は自分の時代より50年進んでいる」と。当時は「エクササイズに精神性を持ち込む」という発想自体が珍しかった時代。ヨガやマインドフルネスが広く認知された現代だからこそ、彼の先見性がより深く理解できるかもしれません。

「10回で気分が変わり、20回で見た目が変わり、30回ですべてが変わる」

ジョセフの言葉の中で最も有名なものの一つがこれです。

「10回で気分が良くなり、20回で見た目が変わり、30回ですべてが変わる」

この言葉には、ジョセフの信念が凝縮されています。正しい方法で続ければ、誰でも変われる。かつて病弱だった少年が、自分の体で証明したこと。それを彼は生徒たちにも伝え続けました。


1967年、83歳——遺言なき旅立ち

晩年のジョセフ・ピラティス

1967年、ジョセフ・ピラティスは83歳でこの世を去りました。最晩年まで自らスタジオで指導を続け、生涯現役を貫いた人生でした。

彼は正式な遺言を残しませんでした。後継者を指名することも、メソッドの継承方法を文書化することもなく、旅立ったのです。

しかし、40年以上にわたってスタジオで育てた弟子たちがいました。何より、共にスタジオを守り続けた妻クララがいました。ジョセフのメソッドは、彼らの手に委ねられることになります。


クララが守り続けたスタジオ——夫亡き後の10年

ジョセフ亡き後、8番街のスタジオを引き継いだのは妻クララでした。

クララは決して表に出るタイプではありませんでした。派手なプロモーションをするでもなく、新しい理論を打ち出すでもなく、ただ静かに、夫が残したメソッドを教え続けました。

生徒たちの質問には、いつも「ジョセフならこう言うでしょう」と答えたといいます。彼女にとってスタジオを守ることは、亡き夫との対話を続けることでもあったのかもしれません。

1977年、クララもこの世を去ります。約10年間、彼女がスタジオを守り続けたからこそ、ジョセフのメソッドは次の世代へと受け継がれることができました。


エルダーたちの旅立ち——現代の「流派」が生まれるまで

受け継がれるメソッド

ジョセフとクララのもとで学んだ弟子たちは、後に「エルダー(長老)」と呼ばれるようになります。彼らはそれぞれの信念と解釈を持って世界中に散らばり、独自のスタイルを確立していきました。

ロマーナ・クリザノウスカ ——クラシカル・ピラティスの源流

ジョセフの教えを最も忠実に守ろうとしたのがロマーナでした。「オリジナルを変えてはいけない」という信念のもと、彼女は厳格な指導者育成システムを築き上げます。現在「クラシカル・ピラティス」と呼ばれるスタイルの源流は、彼女にあります。

ロン・フレッチャー ——ハリウッドに広めた立役者

マーサ・グラハム舞踊団で活躍したロンは、ピラティスにダンスの要素と独自の呼吸法を加えました。ハリウッドにスタジオを構えた彼のもとには、セレブリティたちが列をなしたといいます。ピラティスが「セレブのエクササイズ」として注目されるようになったのは、ロンの功績でもあります。

イヴ・ジェントリー ——リハビリへの応用を切り拓く

自身の乳がん経験から、イヴはリハビリテーションの視点でピラティスを発展させました。「身体は何を必要としているのか」を問い続けた彼女のアプローチは、理学療法や医療現場でのピラティス活用の礎となっています。

エルダーたちはそれぞれの道を歩みながらも、共通して「コントロロジー」の哲学を受け継いでいました。一つのメソッドが多様に解釈され、発展していく。ジョセフは遺言を残しませんでしたが、彼の教えは弟子たちの中に確かに生きていたのです。


2000年、「ピラティス」が一般名称になった日

1990年代後半、ピラティスという名称をめぐって法廷闘争が起こりました。特定の企業が「ピラティス」の商標権を主張したことで、他の指導者たちが自由にこの名前を使えなくなる恐れが出てきたのです。

2000年、アメリカの裁判所はついに判決を下しました。「ピラティスは特定の企業のものではなく、一般名称である」と。

この判決により、誰もが自由にピラティスを教え、学べる時代が始まります。エルダーたちが築いた流派は、ここからBASI、STOTT、Balanced Body、PHI Pilatesなど、現在の主要な国際資格団体へと発展していきました。

ジョセフが生きていた時代、彼のメソッドを学べるのは8番街のスタジオに通える人だけでした。それが今では、世界中どこにいても、様々なスタイルのピラティスを学ぶことができます。


現代のピラティスに受け継がれているもの

1883年にドイツで生まれた病弱な少年が、自分の体を実験台にして作り上げたメソッド。それが二つの世界大戦を経て、海を渡り、弟子たちに受け継がれ、いくつもの流派に分かれながらも、今日まで続いてきました。

現代のピラティスには様々なスタイルがあります。クラシカルな手法を重視するもの、マシンを中心に行うもの、リハビリに特化したもの、アスリート向けに発展したもの。アプローチは異なりますが、その根底には共通する思想が流れています。

「身体と心を、自分の意志でコントロールする」

ジョセフがコントロロジーと名付けたこの哲学は、100年の時を経ても色あせることなく、世界中のスタジオで実践されています。


これがジョセフ・ピラティスの生涯であり、彼が作り上げたメソッドが今に至るまでの物語です。

歴史を知ることで、普段何気なく行っているエクササイズの一つ一つに込められた意味が、少し違って見えてくるかもしれませんね。ピラティスへの理解をさらに深めたい方は、ぜひ現代の流派や資格についても調べてみてください。

この記事を書いた人
saku

GOOD PILATES運営者。デスクワークによる体の不調改善のためにピラティスを始め、その効果に感動。初心者だった頃の経験を活かし、スタジオ選びに必要な情報を分かりやすくまとめています。「初心者でも迷わずスタジオを選べるサイト」を目指して日々更新中。

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